旅行記② 宇和島城
2008年 09月 16日

ここまで上がってくる石段はちょっと大変でしたが、天守閣は小天守などもなく、こじんまりとしています。外観も美しく戦を連想させるような緊迫感がない感じがしました。
古い歴史をもつ宇和島城ですが、現存の天守閣は1662年から1666年にかけて伊達家2代目の宗利により改修されたものですから、戦を想定していないのですね。
この頃の日本は家綱さんの治世で完全に平定の世の中ですものね。
それに幕府は一国一城の制により築城の制限をしたり、三層以上の天守の建造を禁止していました。
江戸時代の天守閣は防御のためというよりも、シンボル的な役割をはたしていたのでしょう。
入り口で天守入場料200円を払って入っていくと・・・


天守閣の模型や肖像がなんかが飾ってありました。
この天守閣模型は1860年に作られたもので作者は不詳だそうですが、家紋などの細かいところまで丁寧につくられていて感心しました。
天守閣は三重なので階段で一番上まで上がるのですが、幅の狭い急な階段を上らなくては行けません。こわいよ~。
実は私高所恐怖症なんです。5年前くらいから急に高いところが怖くなってしまって・・・
今では高いから物を落とすことを想像しただけで気絶しそうになるくらいです。トラウマになるような事件があったわけではないので、不思議です。
そんな訳で、急な階段を目の前に足はガクガクです。仕方がないのでほぼ四つんばいで上っていきました。あぁ、こんな格好・・・人がほとんどいないのが唯一の救いです。
まあそれでも何とか上の階へ進むといろいろな物が展示してありました。
こんなのもありましたよ↓



左から
寛文時代の瓦(1661~72)
天明時代の瓦(1781~88)
昭和36年の瓦
すご~い。こんな古くて多分だけど貴重なものが間近に見られるなんてうれしいな。
ちなみに九曜紋は伊達政宗が気に入って細川氏より譲り受けたものなのだと、後で行った城山郷土館の方に教えていただきました。
他に伊達家の家紋として、政宗の曽祖父の頃に上杉家からお嫁をもらった際一緒に譲り受けた竹ニ雀紋(たけにすずめもん)、伊達氏始祖の朝宗が奥州征伐の際に源頼朝からもらった竪三引両紋(たてみつびきりょうもん)があるのだということも教えていただきました。

宇和島城は東を堀、西を海により守られていたのだけれど、戦後に埋め立てられてしまったのだそうです。これも郷土館の方に教えてもらいました。(またお話しますが、この方がとっても親切な方で、閉館時間を過ぎて入るにもかかわらず、いろいろと丁寧に説明してくださいました。)
地図を見せてもらうと埋め立てられた辺りは商店街とかになっていました。ちょっともったいない感じがしますね。

天守閣と私!
さあ、この後は城山内にある山里倉庫(郷土資料館)へ向かいますが、また少し長くなってしまいましたので、今日のところはこの辺でおしまいにして、最後に少し宇和島城の歴史を紹介したいと思います。
宇和島城は宇和島中央部に位置しています。941年に橘遠保(たちばなとおやす)という 平安時代の官人が藤原純友の乱の際にここに砦を構えました。その後1236年に西園寺公経の所領となりますが、このころはまだ砦程度のものだったそうです。
戦国時代になると、1546年に家藤監物が城を構え板島丸串城と呼ばれます。
1575年には西園寺宣久が居住、1585年になると秀吉の四国討伐により伊予国は小早川隆景の所領になりますが、隆景は二年後すぐに筑前国に転封。戸田勝隆が伊予大洲城に入り、このお城は支城となります。
1595年には藤堂高虎が宇和7万石で入城し、1596年から5年をかけて大改修を行いました。
しかし高虎は1600年の関が原の功績により転封になり、宇和島城の完成をまって国府(今治)に居城を移した後、伊賀、伊勢へ移ります。
1608年に富田信高が伊勢国より転封し、入城しますが1613年には改易になってしまい、宇和島は幕府の直轄となります。
そして一年後の1614年伊達政宗の長男、秀宗が10万石で入封し、1615年に入城します。
1662年に2代目藩主の宗利が城の大改修に着手し、1671年に完成。
時が過ぎて
1871年明治政府によりお城は兵部省帰属します。廃城ということになりますね。。
宇和島城は1950年の文化財保護法の施行により、重要文化財指定されています。
そして2006年、日本100名城に指定されています。100名城のスタンプラリーもやっているようです。全部見れたらステキだろうなぁ。
by adachi-naoko
| 2008-09-16 17:45
| DIARY